群青色の漆喰上塗

長八の作品は、群青色の漆喰上塗を施し、その上に鶴の姿を漆喰で盛り上げて彩色したものです。


そしてその構図は、客室下座側(床ノ間と反対側)の小壁から群鶴が湧き出すように舞い上り、室両側の小壁を伝って正面小壁に向って無数の鶴が羽ばたくさまを描いています。


この間、鶴に一つとして同じ姿態はない。


長八がこの製作に要した工期は伝えられていないが、一面の小壁に関し、壁漆喰が生乾きのうちに鶴の漆喰を盛らなければならないであろうから、彩色は別として、少なくとも一面の壁は一日で仕上げなければなりません。

通訳は大変!

そんなに長い間リテンション(記憶)が効くわけがない、と文句を言っても始まらない。


観念して、ノートにメモをとり、講演の後で、ほぼ同じくらいの時間を使ってまとめた。


・・・まるで私も講演をしたような形になってしまった。


あとでメモを数えてみたら、15、6枚になっていた。


・・・こういうような場合は、同時通訳のほうが楽である。


おかげで、疲労を回復させるのに、まる一日かかった。


通訳とは因果な仕事だなあと、再認識したしだいである。


だが、私にとり、通訳の仕事は、今日の私を築き上げた素地となったはずである。


通訳が私に与えたもの・・・


それは集中力であった。


私がみなさんに勧めたいのも、その通訳である。


ある氏はかつて、私に「1日2時間の通訳の仕事は、サラリーマンの一日の仕事量に匹敵する」と言われた。


彼は時計 ジェイコブを愛用している。


気になる企業はこれだ~その7

満州産業開発5力年計画が立案され、その実行機関として新興財閥日産の全資本を満州に移駐させて満州重工業開発株式会社(満業)を作り、満鉄からほとんどの付属事業をとりあげてこの満業に譲り渡す、という措置がとられました。


日華事変期の対満投資のパイプは満鉄の他に満業が大きく浮かびあがり、満州国政府ルートや朝鮮銀行在満支店を中心に作られた満州興業銀行ルートがそれを補完した。


満業の鮎川義介は当初米国資本の導入を企図していたが失敗に終わり、結局資金はもっぱら日本市場に依存し、13年社債引受シ団を結成するとともに、順次内地日産系会社の持ち株開放を行って資金を調達しました。

気になる企業はこれだ~その6

他方、満州国国債も昭和7年の建国公債や9年以降の北満鉄道買収公債など興銀を中心とするシンジケート団の引き受けで発行され、巨額の満鉄社債も含めて対満公社債の85%が興銀を通じて投下されました。


浮かび上がる満業これらの投資が直ちに満州の生産力を上昇させて日本に物資を供給しうるわけではなく、相当長期間にわたって満州に固定化されるのは当然だった。


したがって日本の資本市場が逼迫し、国際収支も悪化してきた昭和9~10年ごろからは、前述のように対満投資の増大が日本にとって相当の負担となり、日満を通ずる生産力の拡充と、関東軍の意のままにならず11年には全く起債難に陥って資金調達力も失った満鉄のあり方の再検討が問題となりました。

気になる企業はこれだ~その5

満鉄本来の社線以外に、接収された全満の中国系鉄道や買収した北満鉄道の経営を委託され、軍事的要請からソ満国境への新線建設を次マに命令された満鉄は、しだいに事業資金の大部分を鉄道事業のみに固定化せざるをえなくなり、それ以外の重工業諸会社に投資する余裕が失われてきました。


満鉄から付属事業を全部分離させて鉄道事業のみに限定しようとする関東軍の意向は強く、満鉄改組問題や在満機構改革問題となって圧力が加えられました。


最初は財閥資本の進出を拒否していた関東軍も、比較的早くから日本民間資本の対満進出を希望する態度に変化し、9年ごろから相当大量の民間資本進出が始まって、対満投資のパイプとしての満鉄の地位は低下し始めました。

気になる企業はこれだ~その4

満鉄はその事業資金の大部分を株式払い込み、社債募集によって日本の資本市場から調達し、これを次々に設立される傘下事業会社に投下して、対満投資のパイプの役割を果たした。


この時期の対満投資増12億円のうち、満鉄は株式で2億円、社債で5億円を調達し、対満投資の6割は満鉄ルート経由で投下されました。


対満投資は物資購入代金となって直ちに日本に還流し、対満輸出の増大という形で日本の恐慌からの回復に一役買ったが、遊休生産力が消滅してきた昭和10年ごろからは、逆に国内の資金需要と競合して問題を起こす。


満鉄資金調達難として表れた対満供給余力不足問題、国際収支悪化問題がそれです。

気になる企業はこれだ~その3

満州事変直前の昭和5年末における日本の対外投資額約30億円のうち、対中国投資は28億円を占め、うち約17億円は満州に向けられ、満鉄関係のみでも9億円前後が投下されていたと推定されます。


満州事変期に入って対中国投資は急速に増大し、満州に約12億円、華北・華中などに約5億円の投資が追加されました。


対満投資は昭和5年末の約17億円から11年末の約29億円に増加し、さらに16年末には72億円、20年には約108億円にまで増大する。


満州事変期の対満投資増大の主役となったのはやはり満鉄でした。

気になる企業はこれだ~その2

資金需給は逼迫日本の対外投資は、そのほとんどが中国に向けて投下されてきました。


すでに日清戦争で獲得した植民地台湾には製糖資本が根をおろし、日露戦争で勢力圏下におさめた南満州には、国策会社の南満州鉄道株式会社が多数の付属事業を抱えて「満鉄王国」を作り、揚子江中流の大冶鉄山には8幡製鉄所の鉄鉱石確保のため借款の形で資本輸出が行われていました。


第一次世界大戦中にあげた巨額の貿易黒字を背景として、西原借款とよばれる膨大な借款が段棋瑞政権の政治資金に供与され、大戦末期からは日本国内で独占的地位を確立していた紡績資本が急速に中国進出を始め、英国資本や中国の民族資本と激しく競争しつつ、上海に、また青島に続々と紡績工場を建設していきました。

気になる企業はこれだ~その1

三井があれだけのものになるのには300年以上もかかっています。


「自分だけの力ではいくら勉強してもここまで来るわけがないのです。


日本の現状では百年ではあそこにまで行けない。


日本にはそれだけチャンスがない。


ここに公衆コンツェルンの道がある」。


鮎川はこう語っていました。


満州事変期は、第一次世界大戦前後にも増して日本の対外投資が急進展した時期でした。


昭和恐慌下に形成された遊休資金は満鉄というパイプを通じて満州に注ぎ込まれ、さらに日華事変による華北・華中への占領地の拡大とともに日本資本の中国各地への進出が広がりました。

昔の技法

白は夜光貝の殻をすりつぶして作り、赤は口紅に赤がわらをすりつぶした粉をまぜた。


さっそく布をみつけ、子どものころ、家業を手伝ったときの記憶をもとに図案を描き、昔の技法を使って自分の心に焼きついていた紅型の再現につとめたのです。


家系は代代紅型を家業とし、城間さんで十三代、紅型の復興にそれか幸いした。


それだけに城間さんは「若い人は若い人なりに古代を踏まえて新しいものを作っていくべきでしょう」といいます。


「しかし、沖縄人として先祖か残した神髄を理解していることか条件です」似たような事は焼物の世界にもあった。


焼物は荒焼と上焼の二種類があるそうです。


沖縄旅行、ほんとうに行ってよかったです。